
「断ると教授から怒られるぞ」からの30分
6月のある晴れた午後、K大学の実験室は、不思議なほど穏やかだった。
梅雨入り前の光が窓から斜めに差し込み、実験室にある恒温室のファンの低い音が続いている。廊下の奥からは、医局秘書がコピーをする音が、間の抜けたリズムで聞こえてくる。午前中に回診後のカンファレンスが終わり、それからは時間だけが取り残されたようだった。
すると、その空気を切り裂くように医局の電話のベルが鳴った。
受話器を取ると、相手はS学会の事務局だった。夏の地方会で、座長を引き受けてほしいという。大学院に入ったばかりの私は、到底無理な話だと感じ、現実味を持てず、反射的に「自分には荷が重すぎます」と答えていた。
受話器を置いた瞬間、背中に視線を感じた。
振り向くと、ロイド眼鏡をかけた、色黒の先輩医師が立っていた。私の指導医だ。
「そんなのは、断ると教授から怒られるぞ」
甲高い声だった。そこから話が30分ほど続いた。そういう話を断ると、なかなかチャンスが回ってこないということを、ねちねちと彼は続けた。私は黙って聞くしかなかったが、心の中では反発心だけが渦巻いていた。
私は最初からその指導医が苦手だった。大学院に入って1週間でやめようと本気で思ったほどだ。
神経質で、些細なことで声を荒らげる。議論は鋭いが、人の気持ちには無頓着で、医局の空気を一瞬で凍らせることも珍しくなかった。内臓が丈夫なはずの私が、実験室に行くだけで胃が重くなった。
それから2年後、その指導医は私に、
「一緒に呼吸器内科の教授になろう」
と、何事もなかったかのように言った。私は「そうですね」と答えたものの、心の中では絶対に嫌だと叫んでいた。ほどなくして、その指導医はアメリカへ留学した。しめた、と思った。時間の流れが一段、緩んだように感じられた。
その空白のあいだに、私は大学病院を辞めた。
何とか教授に許可をもらい、隣県の、自分の裁量で働ける民間病院に行くことができた。引っ越しの日、県境を越えた瞬間、体にまとわりついていた鉄の塊が外れたような感じがした。
神経質で執拗な指導医対策で身についたもの
ところが、その選択は、私の中に説明のつかない澱のようなものを残したらしい。
しばらくしてから、奇妙な悪夢を見るようになった。舞台はなぜかアメリカの学会で、私はポスター発表をしている。少し離れたところから、あの指導医が顔を真っ赤にして、こちらに向かってくる。大股で、無言で、まるでターミネーターのように。逃げ場を失った瞬間に、私は目が覚める。冷や汗をかいて体は重怠かった。この夢を見た日は、朝から疲れてしまう。
ただ、いま振り返ると、私が身につけた研究の技術の多くは、その人の神経質な評価に耐えるために磨かれたものだった。
曖昧なデータを出さない。根拠の薄い説明をしない。自分で突っ込まれる箇所を先に潰しておく。当時は彼から身を守るためだったが、その癖は、仕事の精度を確実に底上げしていた。いまでも好きにはなれないが、あの人が私の仕事を鍛えたことだけは否定できない。

それからさらに年月が流れ、私は民間病院の医師として働いている。
教授でもなく、学会の中枢にいるわけでもない。2年前、そんな私に、臨床薬理学会の地方会の会長を引き受けてほしいという話が来た。
正直に言えば、自信はなかった。自分に務まるのかという迷いのほうが先に立った。
だが、その瞬間、30年前の6月の医局の光景がよみがえった。
座長を断った若い自分と、それを叱った、ロイド眼鏡の指導医。「そういう話を断ると、なかなかチャンスは回ってこない」。確かにその言葉通り、その後、座長を依頼されるまでに10年以上かかった。
今回も、あのときと同じように、私は自分の可能性をつぶそうとしているのかもしれない。迷いよりも、あの医局で刻まれた焼き印のような感覚。それが私に断ることを許さなかった。

(公開日:2026年3月24日)
筆者プロフィール:
古家英寿
医療法人平心会 大阪治験病院
日本臨床薬理学会(専門医・指導医・評議員)
日本内科学会認定総合内科専門医
大阪大学医学部 特任准教授
奈良県立医科大学 招聘教授